2019/3/10 妊娠34週で息子を死産

今はただ、もがくしかってない

4/21・4/29 出産予定日

2019/04/21.
この日は、はるの出産予定日だった。

予定日を過ぎたら親しい人達には報告しよう

そう思っていた。

報告自体をしない事も考えたが、待っていてくれる人達がいる分、たとえどんな結果であっても報告はするべき……なのかなと。
けれどもそれは、報告を入れる理由の半分であって。
本当の所は結局「どうなったの?」とまた心の準備が出来ていない時に不意打ちを食らうのが嫌だったから。

報告をしなければいけない。
そう思い、事の次第を打ちはしたが、やっぱり辛い……送信する勇気が無い。
何を言われるんだろうか?
何か聞かれたりするんだろうか?
私はちゃんとそれに対応出来るのか?
自分を守る為に、自分で決めた事の筈なのに、送信するのがすごく怖く思えた。

ーーーーーーーーーー
4/29.

報告の連絡を入れる事に迷い続けた結果。
ようやく一週間程あけて、特に親しい人達にのみ報告を送った。

もう明日には平成が終わる。
たとえ結果がどうであっても、はるは平成最後の子供。

どうしても知って欲しかった。
私は確かに息子を産んだのだと。
はるは確かに平成31年3月10日に生まれて来てくれたのだと。

『いろいろ大変だったね。
とても残念だったけれども、白春が大丈夫で良かった』

『心も体も辛いよね。
今はゆっくり休んでください。
そのうち落ち着いて…東京に来れそうになったらこっちに遊びにおいで。
TやSや皆んな集めるからさ』

『また何かあればいつでも連絡してね』

返信されたLINEを見てまた泣いてしまった。

報告を聞いた方もきっと辛かっただろう…

けれどもやっぱり、報告して良かったと思えた。

はるの存在を確かに知ってくれる人が居る。
私はこんなにも優しい人達に恵まれている。
そう改めて思う事が出来たから。

 

4/17 家出

別になんて事ない 。
ただ普通に夕食の支度をしようとして、
そんで全部嫌になった。
というかなんかもう疲れた。

外に出て桜を見て泣いて来よう

唐突にそう思い、夕食の支度を投げ出して外に出た。

時刻は午後6時。
日が沈みつつあるとはいえ、外は暖かく春の陽気だった。
歩きながら妊娠中の事を思い起こしていた。
寒い東北の冬、あんなに毎日凍えながら、大きいお腹抱えて毎日買い物に行っていたのに、今は暖かくて歩き易い。

ほんと、嫌になる。

心待ちにしていた筈の春の暖かさが鬱陶しくて堪らなかった。

近場にある公園で桜を見た。
立派に咲く桜。
本当ならば、はると一緒に見る筈だった。
そう思うと寂しくて寂しくて堪らなかった。

てか、何やってんだろ。

てか、本当に一人なんだな……

はるが居なくなってしまった私は本当に一人ぼっちだった。


時刻は午後8時過ぎ。
日が暮れた外はまだまだ寒かった。
それでも、正直帰りたくないと思った。
帰ればまた旦那と喧嘩になってしまうと分かっていたから。

このままどこかへ行ってしまおうか。
そんな考えも浮かんで来たが、まだはるの四十九日も明けていない。
その考えはすぐに消えた。


「……はるに見られているのかな?」

空に浮かんだ月を見て、ふとそんな事を思った。

こんな事をやっているママも見られてるのかな?

はるが見てたら何て言うかな?

『ママ、寒いのに何してるの?』
『パパがきっと心配してるよ』
『お家に帰ろうよ』

……そう言ってくれたのかな。

……

……帰ろう。
はるの為に帰ろう。

結局帰った後はまた旦那と喧嘩になってしまったが、私の無謀なプチ家出はこうして終了したのだった。

4/15 生理再開

足の間に生暖かいものを感じてトイレに行くと出血していた。

一瞬どうしたのかと焦ったが、どうやら生理が再開したらしかった。

産後1ヶ月での生理再開……
ネット調べた結果、個人差はかなりあるようだが、私のように1ヶ月再開する場合もあるらしい。

妊娠中は生理が来ない。
はるが居なくなったから生理が再開した。
私はもう妊婦ではないのだ……

分かっていた事とはいえ、身体の順調過ぎる回復を喜ぶよりも悲しさの方が優ってしまい、トイレの中で泣いてしまった。

トイレから戻って、一応旦那に報告する。
報告しながらまた涙が溢れていた。

「順調に回復してるって事だよね?
それって良い事なんじゃないの?」

悲しくて充分に説明しなかったのもあるが、何故私が泣いているのか、旦那には理解出来なかったようだ。
きっとこればっかりは、どれだけ説明しても男性には分からないのかもしれない。

生理が再開して泣いているのは私だけ……なのかな?

 

4/11 1ヶ月検診

2019/4/11.
4月にも関わらず大雪が降った次の日。
その日は1ヶ月検診の日だった。

深呼吸を一つして、外来の受付に行く。
しばらく待つと助産師さんに呼ばれた。

助産師さんが立っていたのは、少し壁の影になり待合室からは見えにくい場所。
そこでいきなりその助産師さんに抱き締められた。

すごく驚いた。
一瞬何事かと固まってしまった。

「見た?」

知らない助産師さん。
妊娠中も入院中も今まで見た事のない人だったが、恐らくははるの事を言っているのだろうと思い「見ました」と答えた。

「辛かったね……
外来の皆んなもうるうるしてたよ」

抱き締められて背中をさすられて言葉を掛けて貰えて。

はるの事を知っていてくれた事に。
これ程までに気遣って貰っている事に。
助産師さんの優しさが嬉しくもあり申し訳なくもあり、同時に悲しさも込み上げて来て。
思わずその場で泣いてしまった。

私が泣いてしまったからか、その助産師さんに連れられ妊娠中腹囲を測っていた小さな個室へと移動する。

「人生何があるか分からないからね……」

見れば助産師さんもまた泣いていた。

「(泣きたい時は)我慢せずに、出したい時に出せばいいから」

しばらくいてもいいという助産師さんの言葉に甘え、少しだけその個室で泣かせて貰ったのち、落ち着いた所で血圧・体重を測って診察へ。
旦那と共に診察室へ入った。

悪露の事や傷の痛みなど、軽く問診を受
け、別室にて下からの内診を受ける。

「次の生理の準備が出来てますね」

エコーには小さな黒い空間が写っていた。
小さくなった子宮。
その空間には、もう何も無い。
はるが居た筈のその場所には、ただ黒い空間が写っているだけだった。

それを見て、また泣いてしまいそうになった。
けれどもその場はなんとか涙を堪える。
もう一度診察室へと戻り、旦那と共に再び先生の話を聞いた。

ブログの方では書き忘れてしまったが、私が死産となってしまった理由は、常位胎盤早期剥離。
先生に話を聞いたが、その原因は分からない、と言っていた。

「最初だとお腹の張りとか胎動が無いとか、なかなか分からないと思うからね。
次は気を付けて、気になる事が少しでもあったらすぐに病院に連絡してくださいね」

「次の妊娠までは半年〜一年あけてください。本当は理想は一年ですけどね。
今回の事もありますので、次の出産も帝王切開となります」

診察の最後に「エコー写真は要りますか?」と先生に聞かれた。
一瞬要らないと答え掛けたが、私はそれを貰う事にした。
その理由はたぶん、罪の意識が消えないから。
自分がしてしまった事、元気に産んであげられなかったその事実はたとえどんな事をしても変わりはない。

帝王切開によるお腹の傷が、私にとっては確かにはるを産んだという消えない証なのならば、
妊娠9ヶ月ののち、はるの姿が消えてしまったこのエコー写真は、私にとっては戒めとなる。
はるを失った悲しさや辛さを忘れない為に。
「これ以上辛い事は無い」と今後自分を奮い立たせる為に。
私はエコー写真を貰った。

f:id:hakuharuss0019:20190421170640p:image

こうして、私の1ヶ月検診はとりあえずは無事に終了したのだった。


次の出産も帝王切開
常位胎盤早期剥離は繰り返す可能性が高く、次の妊娠の際もそのリスクがある。

もしかしたら私はもう、普通分娩で陣痛を感じて赤ちゃんを産む事は出来ないのかもしれない。

それでも。
もう一度赤ちゃんを抱っこしたい。
今度はちゃんと、今度こそはちゃんと元気に赤ちゃんを産んであげたい。

先生の話では『半年〜一年あけて』と言っていた。
最短で半年。半年から次の妊娠にチャレンジ出来る……
勿論、早ければ早い程、今度はそこに子宮破裂というリスクが加わってくる事も分かっている。分かってはいるが……

それでも、忘れられない。
はるを抱いたあの感覚が。
はるを抱っこしたあの幸せが。

はるを死産してまだ1ヶ月。
不謹慎かもしれないが、それでも1ヶ月検診を無事に終えて、次の妊娠可能までの期間が思っていたよりも短いと知って。

少しだけ、生きる希望が持てた。

 

4/9 月命日前日

4月9日。
はるの月命日前日。
供える花を旦那と一緒に買いに行った。
その時に、移動中の車内で泣いてしまった。

こんな事をしてあげたかった訳じゃない。
こんな物を買いたかった訳じゃない。
こんな物、本当はいらなかった。
もっと他の物を沢山、買ってあげる筈だった。
沢山買ってあげたかった。
こんな筈じゃなかった。
以前ここに来た時は、確かにはるはお腹に居た。
こんな事になるなんて一ミリも疑いもしなかった。
本当ならば今ここに、はるは一緒に居る筈だった……

月命日が近いせいか。
はるの為の物を買いに行ったせいか。
唐突にはるの事を思い出し、途中で涙が止まらなくなった。

駐車場に車を止め、店内に入る前になんとか涙を拭いが、気を引き締めていないとどうしても唇が震える。
店内に入ってからもずっと、泣かないようにぐっと奥歯を噛み締めていた。

その後、見付けた水色の花を花束にして貰い買った。

けれど結局、自宅に辿り着く前にまた車内で泣いてしまった。

きっと、不安定になっていたのだと思う。

その日は何を見るのも辛く感じた。

自宅に帰り、花を花瓶に移す。
遺骨の置いてある台に花を供えると、寂しさが一層込み上げて来て。
そのまましばらく泣いてしまった。

f:id:hakuharuss0019:20190420184113j:image

4/5・4/6 心の回復

4月5日。
約3週間ぶりに外に出た。
目的は近場での買い物。
旦那と一緒に車で買い物に出掛けた。

手術から約3週間が経過して、身体の方は順調に回復してきていた。
悪露の方はまだ少し血が混じる時があるものの量は少なくなり、帝王切開の傷の痛みも徐々に引いてきている。
そして、本当に少しずつではあるが、泣く事が徐々に少なくなって来ていると感じていた。

とはいえ、自宅に帰ってからというもの、家に引き篭もっている状態がずっと退院してから続いていた。

外に出るのが怖かった。
部屋という閉鎖空間から、外という現実の世界に飛び出すようで。
時間の流れを嫌でも直に感じてしまう気がして。
あれだけ心待ちにしていた暖かい春が外にはもう広がっている気がして。

けれども、実際に外に出てみれば、思っていたよりも意外と平気だった。

車での移動中も。店に入ってからも。
いつも通り普段通り。平気だと思えた。

たぶん、きっと旦那が一緒だったから。
旦那がいつもと変わらず隣で笑わせてくれたから。

はるが居ない事を、その悲しみをあまり意識せずに済んだのだ。

ーーーーーーーーーーーー

4月6日。

『久しぶり〜!そろそろ赤ちゃんが生まれる頃かなと思ってLINEしてみた!』

友達からLINEが来た。
その友人には出産予定は4月だと伝えていた為、そろそろかな?と連絡をくれたのだ。

読んだ途端、思わず泣いてしまった。
部屋には旦那がいた為、泣いている事がバレないように慌てて台所へ逃げる。
台所で返信文を打った。

「どうしたの?なんで泣いてるの?」

不審に思ったのか、旦那が台所まで追いかけて来た。

「いや……なんか友達からLINEが……
そろそろ産まれた頃かな?って送られて来て……」

訳を説明しながらまた涙が溢れて来て、結局最後まで言い切る事が出来なかった。

約3週間が経過して。
昨日はちゃんと外に出られた。
現実の世界に触れても案外平気だと思っていた。
思っていた筈なのに……
死産した話を旦那以外の誰かにするのは、全然平気じゃなかった。

死産となってしまったとはいえ、予定日が来たら、一応親しい人達には報告はしようと思っていた。
そんな時に来たまさかの不意打ち。
報告を聞いた方もきっと辛かった筈だけれども……誰かに改めて話をするのはこんなにも辛い事なんだと思った。

『前向きに頑張ってみるよ』

自分で打った返信文。
自分で打ってて思った。

前向きってなんだ?
一体どうすれば前向きなの?
はるの話で泣かなくなれば?
はるの写真を見ても泣かなくなれば?
それで前を向いた事になるの?
どういう状態が前向きなの?

前向きって何?

前ってどっち?

自分で打った筈の返信文に、本心があるのか分からなかった。

身体が回復しつつあった分、泣く事が徐々にではあるが減りつつあった分、心の方も少しずつ回復して来ているのかと思っていた。

だが実際は、その話になった途端、やっぱり堪え切れず泣いてしまう。

たぶんきっと、言うほど簡単じゃない。
心が回復するのには、まだまだ時間が掛かるのかもしれない……とその日改めて思い知った。

3/31 決定打

3月末。旦那と大喧嘩になった。
原因は飲酒。
約1年ぶりにお酒を飲んで気が緩んだ結果。
溜まりに溜まった感情が爆発してしまった。

「はるの事について話をしたい」

「何を話すの?話す事なんてない」

「何で何も無いの?
はるの事はもう終わった話なの?」

「意味が分からない。
俺が何も言わないのは、辛いから。
これ以上、精神的に不安定にさせたくないから。
だから言わない。辛くなるから」


この時はアルコールも入っていて全く冷静じゃなかった為、分からなかったが、後からになって気付いた。
自分が完全に間違えていた、と。
別に話合いをしたかった訳じゃない。
ただ、「話を聞いて欲しかった」


たぶんその時だ。
ブログを書こうと決めたのは。

一人で溜め込むのが苦しかった。
もっとちゃんと話を聞いて欲しかった。

この時、旦那とは分かり合えないと思った。
はるの話をしたいのに、話を聞いて欲しいのに、話し合う事は出来ない。

私と旦那。
そして、双方の両親や家族、病院関係者以外、誰もはるが産まれた事を知らない。
これから先、友人や元職場の同僚、親しい人達に出産した事を報告したとしても、それ以降はきっと、誰もその話には触れない。
辛くなるから。悲しいから。
余計な気を遣わせてしまうから。
それがお互いにとっての気遣いで。
そしてきっと、いずれははるの事を話す事さえなくなってしまう。

私は確かにはるを産んだのに。
はるは確かにここに居たのに。

はるの話を、死産の話をタブーとしてしまったら、まるで全てが無かった事になってしまう気がして。
昨日までここに居た筈のはるの存在が薄れていってしまう気がして。

怖かった。


だからだと思う。
だからきっと、はじめにも書いた

『たとえ、誰もが君を忘れてしまっても。
たとえ、世界が君の存在を知らなくても。
ママは君を忘れないから。』

『息子は確かにここに存在したと、残しておきたい』

これがまさしく本音。
誰かの為に……なんて、偉そうな事を書きはしたが、本音を言ってしまえば結局、ブログを書き始めた本当の理由は、紛れもなく自分自身の為。

『はるの存在証明の為』だった。

勿論、私自身、入院中に同じような経験をされた天使ママさん達のブログを読んで救われ、自分も自身の体験を綴る事で同じように苦しんでいる誰かの支えになれるかもしれない……
そういう気持ちも勿論あった。
そして、ブログを書き進めるうち、それが自分の中での気持ちの整理になっていたのも紛れもない事実ではあるのだけれども…


日付が変わってから勃発した旦那とのこの大喧嘩が、私にとってブログを書く上での決定打となった。

話が逸れてしまったが、離婚の話も僅かにちらついた旦那との大喧嘩は、とりあえずは何とか終息した。